発信環境

𝕏の喧騒に嫌気が差して、自身の考えや立ち振る舞いを改めて言葉にしておく儀式がしたくなり、うおおお!となった。

昔、私の行動指針をわかりやすくするため「楽しむ努力をする」と言語化したことがあります。これは今でも変わらず通用していて、言語化した甲斐があったものです。ゴーイングマイウェイ。

環境は変わる

環境は人の感情に作用します。環境が悪くなるほど無関心を貫くのは難しくなります。環境に文句を言ったところで一瞬気は紛れるかもしれませんが、現実として何かが改善されることはありません。

気分良く過ごしたいと強く願うのなら、環境に手を加えるか別の環境に移るか、とにかく具体的なアクションが必要でしょう。人に何かを望むより、自分が変わるほうが遥かに簡単です。

こうした選択は生きている限りずっと続いていくものです。なるべくしがらみをなくして身軽にし、選択肢を多く持ち続けることがリスクヘッジになると考えます。

時には立ち止まり、自分の望みが何なのか見つめ直してみるとどうでしょう。ここは直したほうがいいかも、と気付きを得れば試してみて、地道な改善を積み重ねていくことに繋がります。こうした考察は怠りたくないし、ここを頑張る過程そのものが楽しめるのなら、よりハッピーだと思いますね。

何かをするのには少なからずエネルギーが必要だから、何に興味を持ってどこまで努力できるかは人それぞれ。

もっと楽しくありたいから、もっと努力しよう。大まかにはそんな雰囲気で私は生きています。

環境というのはすごく抽象的ですが、人や場の要素は大きそうです。

人とは不特定多数のガヤではなくてひとりひとりの個人を指すニュアンスで言っています。

人間関係なら、あんまり気を遣わないほうがいいなとか、この人の話は面白いなとか、一緒にいて楽しいなとか、好ましい関わり方は様々思いつくことでしょう。

それは必ずしもずっと近くにある必要もなくて、そのときの気分で距離は調整することで疲れず長続きしやすい傾向はありそう。遊びたいから構って〜と気軽に接近できるような相手がいるなら幸せなことでしょうね。大切にしたい。

また、肝に銘じておきたいのは、どんないい人でも、冷静で聡明そうな人であったとしても、孤独は人を害するということです。あるいは、害する人間から離れられない環境下で精神を病むことだってあるかもしれません。

都合のいい人ばかりを選ぶのは楽だけど、次第に選択肢がなくなっていきます。すると、おかしくなってることに気付けなかったり、軌道修正できなくなったりしていく。

だからこそ、健全な人間関係を保ち、各個人の事情を受け入れる姿勢を示すためにも自分の価値や経験を、他人にも当てはまるものだと盲信しないことが賢明だとも思っています。人との違いを確かめるのも面白いものです。

あなたはいい人?悪い人?敵か?味方か?なんてラベル化する質問は回答に困るだろうし、他人に当てはめてしまうのも失礼な話です。思考停止せずに個人であることは認めてあげたい。

あとはそうだな。身近に困ってそうな人がいたら、責任は持てないけれど、できる範囲で助けになってあげれば、回り回って自分のためにもなるだろう。助けが欲しければ「助けて」と頼ることも大事。

人とは個人であり、個人を見たいね、ということです。

集中して読書でもしたければ落ち着いたカフェに行きたいかもしれません。少ない時間でたくさんの話がしたければ美味しい居酒屋や飲食店に誘うのかもしれません。人の行動と場というのは切り離せません。

どんな人を呼び込み、どんなことが快適にできるのか、空間設計や設備によるところは大きいですね。

とはいっても、個人が空間そのものを作るっていうのは途方もなくてほとんど無理な話です。基本的には既に築き上がっている場を選んだり、帰属コミュニティを維持することになるんだと思います。

だから、場というのは空間そのものでもあると同時に、そこに存在する人々の営みでもある。個人ではなくてスケールの異なる社会の話にもなってくる。

愚かなインターネット

個人が接触できる範囲なんてたかが知れているのですが、インターネットとSNSとAIの発達によって、人が効率よく愚かになれるよう舞台が出来上がりました。

たったひとりの言動を過剰に大きく取り上げ、とんでもない!と怒り狂う民衆の過剰反応はさらなる怒りを呼び起こし、各々が自分語りを始めてもはや元の話題すらわからない様相。もしかしたら空想上のマックにいた女子高生の話だったかもしれないが、お構いなしです。まあ落ち着いてほしい。情報リテラシーが試されます。

イマドキの企業はコンプライアンス遵守を求められますが、実際には怒り狂う社会との関わり方は極めて難しいのではないのでしょうか。例えば、キャンセルカルチャーが発生して、何が適切なのか共通見解が形成できずに議論をたびたび巻き起こしていますね。

また自由には責任が伴うはずで、顧客なら何をしてもいいわけでもなく、従業員を守るためのカスタマーハラスメント対策も進む防衛戦が展開されることに。

いずれにせよ何らかの怒りと戦っていますね。なんか知らんけど今の民衆は怒ってる。なんか知らんけど。

私はそんなところの最前線にいても楽しくない!私が楽しくない!怒るのは疲れるから他のことをしていたい!社会を知るための観測はするけれど、積極的に関わってたら窒息してしまうよ・・・!

そして空間設計としても、今のインターネットは行き過ぎた広告によって著しくユーザ体験を損ねているのはもう国民の総意。

𝕏じゃなくてBlueskyが居心地いいねとか、ウェブブラウジングや動画視聴に広告ブロッカーがないとやっていられないねとか、劣悪な基盤に対するアクションを取る人が増えて、混沌を極めている令和時代。これには不便を強いられて本当に辟易しています。広告事業はGoogleによるものだから、Googleには改めて don't be evil を突きつけたい。

さらには情報検索する上でも、対象によっては生成AIによって爆発的に増えた情報に汚染され、検索結果の精度に悪影響が出てきているものも見られています。今後ますます問題は顕在化するのでしょうね。想像しきれない。テクノロジーとはなんのためにあるのだろう。

アフターコロナで破壊された場が元通りにはならなかったとか、経済が混乱しているとか、そういったことも後押ししてそうにせよ、技術が露悪的に作用しているのは目に余るわけです。

だいぶ嘆いてしまった。

ともかく、インフラと言えるほど支配的な場が、急速に愚かになってしまっていることは認めざるを得ないのだなと思ったのでした。

自我を委ねない発信

こうなるともう私が取る選択は、まず触れる情報をバッサリ切るところから始まります。

この話題はスルーしておこう、ミュートしておこう、そもそも広告がうるさくてまともに見れなくて不快度が高まったらすぐに閉じよう、追いかける時間を費やす価値がなさそうなら他のやりたいことをやろう。プラットフォームは死にました。𝕏は時系列に情報を追いやすくないし、サードパーティクライアントを締め出してから、私にはもう扱いきれなくなった。無理に付き合う必要なんてない。ごめんなさい、みんなのTLの流れほぼ見てないっす。

そして、今回強めに主張したいのですが、プラットフォームに支配されない自我を保つため、何かを発信し続けることの重要性が増したとも思っています。

今のところ、Blueskyは比較的静かなインターネットです。気分を害する機会はほぼないため、伸び伸びと自分の「好き」を書きやすい。意図的に「好き」にフォーカスして、ネガティブに偏らないよう毒を抜いてるのもあります。

この運用は初期Twitterの使い方を意識したものです。同じ空間にいる人たちがそれぞれ好きなことを垂れ流しているのが観測できて自分も明るい気分になれるし、興味が重なると話題に乗っかって好きをさらに発展させていくポジティブなフィードバックの連鎖が生まれたものでした。インプレッションとかどうでもよくて、民衆ではなく自分という個人が主導権を握っていられました。そこに自我はあった。旧Twitterで築き上がった人間関係は私には大きくて、非常に良い時代を経験させてもらいました。

好きなこと、楽しいことを思うままに発信し、それをシステマチックに高速に消費するのではなく、共有している空間で接触して、気まぐれに掘り下げができる緩いコミュニケーションの機会創出。これこそが場ではないのか。

Blueskyのマネタイズは未定でプラットフォームが存続する道も気になるし、人口が増えたらまた向き合い方を調整する必要は出てくるけれど、今の私には都合よく使えそうな感触があります。

このように変な心理的ハードルを取っ払った自己表現手段としては、ブログも同様に使えると思っています。

書くのは面倒ですよ。でも、書いてみれば夢中になるものです。これは書きたいから書くのであって、コメントなどのリアクションを求めてすらない。むしろコメントがうるさくなるぐらいならコメント欄を封鎖していいんじゃないかな。

私にSNS以外でリアクションを取りたい人もいるかもしれないので、連絡手段の代わりぐらいにコメント欄を置いている、というのが今の認識です。あくまで発信が目的。リアクションはオプション。

おわり

そんなわけで私の好きなことをアウトプットしていくことに改めて力を入れていきたいな、そのためには周りを気にせずマイペースに書けるブログなんかはうってつけだよな、という具合にモチベが上がっているこの頃です。

狂ったように忙しかった仕事がひとまず落ち着いた解放感による反動もあって、ゴキゲンでこんな文章を勢い任せで書いてしまうのです。ブログなら書けてしまうのです。

みんなも楽しいことしようぜ。

周りが楽しそうなら私も嬉しい。もっと楽しい。