しん次元クレヨンしんちゃん感想

勢いで書いた。あんまり読ませる気がなくて長くてごめん。

Twitterに感想を垂れ流そうにも、ネタバレを避けるとあまり書けることがなかったので、こちらに。

クレヨンしんちゃんといえば名探偵コナンと同様に毎年春に劇場版が公開されるのがセオリー。今回の「しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜」はそれとはまた別の映画で、白組によって制作されたフル3D映画となります。まったくの事前知識なしで、絵面が面白いなぐらいの気持ちで観てきました。

子どもから大人まで楽しめる作品として描くスタンスは多分変わらないと思いますが、どちらかというと大人寄りのメッセージに子ども向け作品の味付けをした印象です。まあまあまとまった内容ではありつつ、面白いかというと中途半端と言わざるを得ません。

超能力を題材とした物語で、あるとき謎の光が2つ宇宙から降り注ぎ、これがしんちゃん(と、ひまわり)と一人のお兄さんに超能力を与え、未来に絶望しているお兄さんの負の感情を増長させ超能力は暴走、これにしんちゃんの超能力で立ち向かおう、という流れです。

この作品は超能力を未来予知・テレパシー・透視・テレポーテーション・念動力の5種類に分類されるとします。のちに登場する伏線としての説明ですね。

しんちゃん・ひまわり兄妹は力を分かち合って未来予知以外の能力を少しずつ目覚めさせていきます。お兄さんは超能力に対する知識の問題なのか冷静でないからなのかわからないですが、念動力の脳筋だったような気がします。まあ絵的にはわかりやすく暴れてくれてます。

さて、未来予知については特に使用されていませんね。謎の光は大昔に予言されていたものなので、その人が未来予知の能力者なんでしょう。そこから掘り下げなかったのは、希望の見えない閉塞した現代社会をどう生きるか、という命題を描く上で邪魔だったのかな、と思いました。

超能力に縋りたくなるほど未来に不安だらけの現代だが、超能力でも幸せは掴めやしない。未来はわからない。でも、一人になるな、仲間がいれば頑張れるよ、君を応援するよ、生きていこう。概ねこんな結論になるため、超能力を超能力で捻じ伏せることで事件を解決しようとしません(心に傷を負った過去に介入してはいるけど)。倒すべき悪として描いていないので、仮に倒したとしても何も解決してないんですよね。

シン・エヴァンゲリオンの親子喧嘩みたいな心象風景的なシュールな絵面もなく、割とがっつりシリアスに泥臭く悪意に面と立ち向かうド根性なシーンは痛々しくて絵的にも物語的にもカタルシスはないですね。

ローンがまだ〜などの生々しいギャグが大人をクスリとさせるお約束でもあるのがクレヨンしんちゃんですが、本作では社会風刺的なネタを笑いものにするのではなく、笑いのネタにできない深刻な問題に真面目に回答しようとしています。それが一筋縄ではいかないし、結論を単純化するために強引さは否めないし、かといって茶化すことで整合性が取れなくなることも嫌うため、エンタメ的な爽快感がない。ここらへん、評価が分かれるところです。私もこれで頑張ろう、と思えるほど共感を得たかというと、別に。

いじめられてきて、本当の本当に一人も友達もいなくて、離婚した両親との関係を絶ち、ひとりティッシュ配りのバイトをしているお兄さんは失うものがない「無敵の人」です。2023年を強調して現代の社会問題に触れるリアリティの中で、たしか30歳なので余計に厳しく感じてしまう。唯一アイドルを拠り所にしていたのも、結婚に伴う引退で裏切られたと思い込んで受け入れられない。勘違いで警察に追われても動揺して逃げるし道中でたくさんの迷惑をかけてしまう。非リア充をもじった比理谷充(ひりや・みつる)という名前もあんまりだ。超能力の行使も復讐と言いつつ具体的な目的のない行き当たりばったりな八つ当たりです。

そんな彼がもし奮起するとして、それはどんな未来に向かっていくモチベーションを持つのでしょうか。かなりもう取り戻せない域には来てるリアルさがあるせいで、手放しに大丈夫大丈夫とは言えません。個人でどうにもならなくない?だからこその現代は諦観に溢れているのでは?

人それぞれの幸せの形があるとは思うので、せめてその中で掴める幸せが何なのか求めて前に進んでいく、というところに具体性がほしい。ただ目的もなく「頑張る」という方向性のないメッセージではアプローチできません。

「一人は良くない」ということ自体は真実だと思いますし、だからこそ「手巻き寿司は一緒に食べるから美味い」のだと思いますし、「誰かのために頑張れば頑張れる」という論理なのでしょう。じゃあ、誰かを想いやれるよう孤独にさせないようにするにはどうすればいいのかってところを丁寧に描く必要があるんですが、過去の凄惨な記憶に干渉したイマジナリーフレンド的な表現になってしまっていて、何かきっかけがあって実を結んだ関係ではなく、「存在しない記憶」でブラザーになったぐらいの突拍子のなさがあります。

孤独ではないと思わせる関係性を築いた上で、はじめて後押しとして機能する「頑張れ」なんですが、どうしてもこの前提部分の説得力や因果関係が弱いんですよ。前提をすっ飛ばした無責任な「頑張れ」ほど残酷なものもなく、そことの違いを誤解なく描けているとは思えなかったのです。

ここまで踏み込むのなら、「大人も傷つくし大変なんだな。でも、こんな未来を目指して頑張ってる人がいて、それを肯定する人でありたい」と子どもに示してくれるぐらいの明快さを見せてほしかったですね。

お兄さんの両親との関係性は、嫌気が差して諦めて手放したものですが、それが良かったのか悪かったのかもわからない。毒親問題が注目されることもある現代で、無責任に「家族」を肯定したくなかったのもあるかもしれませんが、孤独を拒否する必要があるため抽象的に「仲間」という言葉を用いて、これがどのぐらいの重みを持つのかもよくわかりません。かすかべ防衛隊の一員として迎え入れるとか、そこにどれだけの意味、想い、信念、力強さがあるのか、を強調しないと仲間ってなんだろう、とふわふわした気持ちになります。やっぱり過程なのでは。

お兄さんの境遇など人の事情に寄り添ってお兄さんの自己肯定感をケアする方向でシナリオを組み立て直さないと筋が通らない気がします。正しい文脈で自己肯定感を満たす応援のための「頑張れ」に意味があると説くことに理解は示しますが、これもなかなか難しいことです。「頑張る」って言ってる人に「頑張れ」って応じるならわかりやすいんですが、そういう会話じゃない上に、背中を押す側も自信を持って送り出して後悔がないか、というと難しい時代です。

サンボマスターによるエンディング曲「Future is Yours」がまっすぐな応援ソングで、こちらの歌詞のほうがわかりやすいんですが、例えばこれをぼっちちゃんは受け入れられるかな?と想像すると、やっぱり厳しいんじゃないかと思ってしまう。寄り添ってくれるお前はどこにいる誰だ、と(歌なんだけど)。妙にリアルだなぁ、ぼっち・ざ・ろっく。

3D表現は良かったと思いますよ。町並みや幼稚園の表現はよく作り込まれていましたし、キャラクターもダイナミックに動いてなかなか見応えありました。ディテール増したカンタムロボを選ぶのもいいと思います。おぞましく巨大に進化した怪物のホラーさも3Dならではの存在感でよかった。怖い敵大好き。なのに、超能力で片付けたくない脚本都合でそのインパクトは活かされないので、どうしてもエンタメになりきれてない・・・。心の壁をひとつ取っ払うごとに弱体化するぐらいのビジュアル化はしてもよかったのでは。

あとあまり気にしないようにしつつ難しいなと思ったのは、3Dで多少リアル目なところがあるので、この車の吹っ飛び方は死ぬだろ・・・と思わせちゃうようなコメディー作品としてのオブラートさの薄さが後半で目立ってくる。車が大破してタイヤの上を走るぐらいベタなことしてくれ。その点、前半の出来は良い。

「雲黒斎の野望」の終盤で、カンタムロボにみんなで乗り込んで必死にコマンド入力してるシュールなシチュエーションと謎の緊迫感とスケールのでかさが見事に融合していた面白さが印象深くて、そういう方向に突き抜けて「未来の不安なんてうるせぇ!知らねぇ!今をしっかり生きるだけだ!」ぐらいハジケたい気持ちがあるんですよね。老害ですかね。いやでも、やっぱ「現代社会つらい中で、お前は頑張ってると思うよ、頑張れ」って言われると、そっか・・・てならない?

そんな感じで、なんかムズムズしました。色々考えればやりたいことは見えてくるんだけど、やりたいことに引っ張られちゃっていて、ひとつの作品として見たときの違和感を埋めきれていない。

ちなみに原作26巻に元ネタとなったエピソードがあってパンフにも掲載されていますし、公式YouTubeでも公開されています。記憶にないですが昔アニメ特番でも放送してたことがあるんだとか。


www.youtube.com

比理谷充に相当するキャラは仕事をクビになった青年で、暗黒の光の影響で負の側面が増長されて暴走こそするけど、小気味よいテンポでギャグの応酬をしたのちに善の超能力パワーで圧倒されたことで気分が晴れて再就職宣言したところに「頑張れよ!」と応えて気持ちよく幕引き。クビになったぞ畜生!悪のエスパーに目覚めたぞガハハ!グワー!ぐらいのノリといえばだいたい内容伝わりますかね。結末としては都合がいいんですが、小気味よい会話の流れはすっと頭に入ってくるし、ギャグ作品としてカラッとした仕上がりは流石の面白さだと思います。

ここに色々考えて肉付けしていく作り手の癖が良くも悪くも出ちゃったんでしょうね。ひろしの「頑張れ」も原作準拠なんだけど、文脈が変わってしまったことでチグハグ。そう思うとなんかもったいないんですよね・・・。